「時に世界は残酷に」
 
 
 
時の流れは速過ぎて。
その流れは、瞳を閉ざすにははやすぎて、瞳を開けるにはおそすぎる。
どうしてそれ程までに急ぐ必要がありましょう。
わたくしには、時の流れは速すぎましょう。
ですからきっと、おそらく、多分、わたくしは時を止めたのでしょう。
 
 
 
ふわり。
赤い靴を履いた彼女は、気紛れに舞い降りた。
道行く人物は誰も不信がらず、大通りに唐突に現れた彼女をその世界はすんなりと受け入れた。
漆黒の長く美しい髪をと対して白いスカートを翻し、自らが背を向けていた建物を見上げる。
然程大きくは無いが、特別小さいと言うわけでもない建物。
そっと窓を覗き込むと沢山の本が見えた。
恐らく本屋か、若しくは図書館なのだろう。
窓から沢山の本を眺めていた、赤い靴を履いた彼女は、気紛れに建物の扉を引いた。
ふわり、ふわり。
歩くのではなく、けれどただ浮いているのでもなく、移動する。
地に足をつけば歩けるけれど。
ただ浮くことだって出来るけれど。
彼女はもうずっとこうして、世界を移動している。
きょろきょろとあたりを見渡し、ふと、ある欄に目を留め、すいっと近付く。
その棚の、最上。
「・・・・・・」
ふわり、またひとつ上に浮かんで、手を伸ばす。
 
「こんにちは」
 
唐突に声を掛けられた。
伸ばす手を下ろして、右下を見た。
いつの間にそこに立っていたのだろう、黒髪に金と蒼の瞳の、エプロンをした青年がこちらに微笑みかけている。
「こんにちは、赤い靴の不思議なお嬢さん」
中々彼女が返さないからだろう、もう一度彼は挨拶をした。
今度は、彼女に対してしているのだと証明するための固有名詞をつけて。
彼女は無表情に暫く彼を見ていたが、じきに小さくお辞儀をした。
そうしてまた暫く、声を聞かせてはくれないんですねと言って苦笑する彼を見つめ、
やがて何事も無かったかの様に棚を見上げて手を伸ばし、目的の本を手にした。
ふわりと降下すると、彼の元を離れて、何かを探すようにあたりを見渡す。
それを目で追っていた彼は、彼女に近付いて問う。
「その本をゆっくり読む事の出来る場所を探しているんですか?」
「・・・・・」
こくり、頷く。
すると彼は笑顔を浮かべて
「それならこちらです、ご案内しますよ」
付いて来て下さい、と歩き出した。彼女はその後を追った。
 
 
 
彼女が窓際の日当たりの良い席に着くと、彼はそこから少し離れた本棚を整理し始めた。
しかし彼女が気になるのか、そっと伺い見る。
本を整理しつつ口を開いた。
「・・・・そう言えば、まだ自己紹介をしてませんでしたよね?
見ての通り、この図書館で司書をしているアルフォンス・ミシェルと言います。貴女は?」
問い掛けられて、彼女は本から目を離し、彼を見つめる。
「・・・・・・」
ずっと黙ったままの彼女を、彼もまた見つめた。
輝く朝日の下、沈黙が饒舌に語る。
彼が微笑んだまま、彼女の答えを待っている。
彼女がふと彼から目を反らし、伏し目がちになる。襟巻きに隠れ気味の口を小さく開く。
「オフィーリア」
小さいが透き通った声がそれだけを述べた。
「オフィーリア・・・・素敵なお名前ですね」
「・・・・・・わたくしの名など、よくあるものでありましょう」
名前を誉める言葉を、よくあるものだと切り捨てて、すぐに本に目を戻した。
彼は再び苦笑して本に手を伸ばす。
やがて整理が終わったのか、彼はふらりとどこかへ姿を消す。
彼女は彼が先程まで居た場所を見て、僅かに眉を寄せた。
 
やはり、例え世辞だったとしても誉めて貰ったのだから、礼くらい言うべきだっただろうか。
機嫌を損ねてしまったのだろうか。
 
僅かに心苦しいまま、綴られた文章を眺める。
ふと足音が聞こえだし、顔を上げると、彼が一冊の本を持ってこちらへ向かって来ていた。
ミシェルはオフィーリアの隣に立つと、本をたたんで自分を見上げるオフィーリアに自らの持つ本を見せた。
「これは、シェイクスピアと言う有名な人物が書いた『ハムレット』と言う作品でして、
実はこの物語のヒロインが、貴女と同じ名前をもっているんですよ」
「・・・・・」
「・・・しかし残念ながら彼女は、恋人であるハムレットに冷たくされて悲しみに暮れ、狂乱し。
そして誤って足を滑らせて川に落ち、溺れ死んでしまうんです。しかしその場面を色々な画家が美しく儚く描いています。
沢山の華を携えて水に沈む彼女。色々な意味で、彼女の時は止まってしまった」
物語のその場面で。
あるいは画家の絵の中で。
「僕はそれが、すこしかなしい」
やわらかく、苦笑。
本当ならば、ページを繰るたびに、その命は蘇り、その時は動いている筈なのに。
「でも・・・」
「・・・・その物語のオフィーリア」
「え?」
ミシェルを見つめていた彼女は、小さく小さく口にする。
今にも途切れてしまいそうな声だ。
脆く儚いが、美しく透き通った、硝子の声だ。
何かを言おうとしたミシェルは、言葉を止め、耳を澄まして声を待つ。
オフィーリアはそっと目を閉じて、そっと胸に出口の無い袖に包まれた手を当てた。
「きっとわたくしと同じなのでしょう」
「同じ?」
「わたくしの時も、とうに止まっているのです」
きっと人の心臓は、どくんと鳴るのだろうが。
オフィーリアの心臓は、そんな音を立てなかった。
かちり、かちり。
まるで時計の音のよう。
自分がいつから存在し、いつからこんな音を立てるようになったのか、それすら覚えていない。
気付けば時間の扉を潜って、世界を旅していた。
多くの人はオフィーリアに気付かず、ただ通り過ぎていった。
極々稀に、彼女の存在に気付くものも居た。
けれど声をかける事はされなかった。
瞳を開けて、ミシェルを見る。
「ただのひとに、どうして宙を浮くことができましょう。ただのひとに、どうして脈打つ事をやめて生きられましょう」
「・・・・」
「わたくしの時は、とうに止まっているのです。こうして胸に手を当てど、響く音色は時計の刻み。
その物語のオフィーリア、わたくしと同じなのでしょう。命などとうに、あるいは、わたくしの場合端から、ないのでしょう」
す、と手を伸ばし、彼の持つ本を手にとる。
慈しむように表紙を一撫でし、胸に押し当て抱き締める。
「けれど悲しんでなどいないのです。わたくしに、この時の流れは速すぎる。
どうしてそんなに急ぐのでしょう、無理に変わることなどないでしょうに。わたくしは変わってしまう事が恐ろしい」
「恐ろしい、ですか」
「・・・・・・」
僅かに頷く。
オフィーリアは変わって、失う事は沢山あるということを知っている。
例えば子どもが大人になる時。
世界で生きていくには、子どものままでは都合が悪い。だから大人になるのだ。
だが手に入れる代わりに、失うものはある。
子供の時に見えていたものは、大人になってからは見えなくなる事が多い。
「・・・・変わってしまえば、失うものもございましょう」
それは世界の残酷な真理だ。
「そうですね、確かに変われば失う事も多い。正論です。でも、失ってばかりではないでしょう?」
にこりと微笑んで語る。
そうですね、と考えるようにして、ふと机の上に置いてある本に目を留めた。
オフィーリアが先程まで読んでいたものだ。
「例えば・・・・あぁ、その貴女が読んでいた『美女と野獣』、いい例ではありませんか?
今までの冷酷な性格から、優しい性格に変わった。そうしたら、愛する人の愛情を手に入れた」
「・・・・・ぁ」
「それに、生きているとは何ですか?人間である事ですか?心臓が動いている事?僕は、そのどちらとも思いません。
誰かの記憶の中に、その存在があれば、もしくはそこに存在していれば、それだけでもう、
生きていると言って良いじゃないですか。それだけでもう、充分じゃないですか」
そっと、オフィーリアの肩に手を置く。
その笑顔に瞳を揺らめかせて、彼女は彼の言葉を反芻する。
「・・・・存在、だけで?」
「そう、存在だけで」
 
例えば物語りのオフィーリア。
彼女も、他の誰かが忘れても、自分が覚えてさえ居れば、彼女の姿は自分の記憶に生きている。
そう、信じている。
 
「大丈夫、貴女は生きてる」
 
記憶の中にも。
今ここに、貴女自身が存在するから。
 
 
 
 
キィ。
扉の開く音がする。
「・・・・・・わたくしはそろそろ帰ることにいたしましょう」
その音に反応したように、ミシェルから目を反らしてそう言った。
彼はそうですか、と小さく呟いて、オフィーリアの肩から手を離した。
す、と本を手にした彼女に、彼は微笑んだまま言う。
「あぁ、本は僕が戻しておきますよ。向こうの棚の整理がてら、ね」
「・・・・・・」
ぺこり、と礼をして渡す。
ふわり。
宙に浮く。
その彼女の目の前で、ミシェルは眼鏡に手をかけ、外す。
朝日に溶ける柔らかな光を放つ。
僅かの間瞳を閉ざし、その光から逃れる。
そして目を開けると。
「・・・・・」
「実は、僕も厳密に言うと人間じゃないんですよね・・・・まぁ、ここに来てくれる普通のお客さんには秘密ですけど」
 
オフィーリアもここに来るお客さんには、この事はどうぞご内密に。
 
くすくす笑ってウィンクをし、眼鏡を掛けなおす。
僅かに目を見開いていたオフィーリアは、一度ゆっくりと瞬きをして言う。
「・・・・・・いずれまた、お会いいたしましょう」
「はい、いつでもいらして下さい、お待ちしてます」
その笑顔をじっと見つめてから、彼女は空中に手を伸ばた。
するとそこに赤い華の絡まった、鉄のような物で出来た格子扉が現れ、扉が開く。
その向こう側は、暗闇だ。数字が泳いでいるのだけが見える。
「ご機嫌よう、ミシェル」
「さようなら、オフィーリア」
彼女はそこに吸い込まれるように消えていった。
 
 
 
梯子に登ってから、手元に残った本を見つめる。
また会えるといい。
そうすれば、きっともっと沢山の事を教えよう。
そして彼女の事も教えてもらおう。
そう考えて、ミシェルは本を棚に戻した。
キィ。
扉が開いた。
「こんにちは」
「こんにちは、あの―――――・・・」
さぁ。また会う時までは日常に戻ろう。
また、会えると良い。
 
 
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