木々の隙間からこぼれる月明かりの下。
ゆったりと歩む仄かに湿った冷たい土は、その度素足に吸いついた。
おぼつかない足取りのまま、彼女は眼前に広がる泉に向かって進み。
ぱしゃりと足元の水が鳴いても足は進み続け、とうとう腰まで水に侵されてしまった。
水中で揺らめく髪と蒼く光る水面をしばし見詰め、そうしてようやく月にその貌を曝した。
そのまま淡青色の軌跡を描きながらとゆっくりと泉に身を委ねた。
星を鏤めたように輝いた髪は、ほのかに薔薇を匂わせて、緩やかに踊る。

 

「幻想月下の空飛ぶ魚」

 

カンテラがからりと小さな音をたてた。
明かりなしでも差し支えない程、空は澄み渡り眩い光が差し込んでいたが、
森に入ってしまえば木々に遮られて陽よりも弱い光は届かない。
「………」
夜気に冷え切っているであろう土を踏み、所々に生える草を踏み、
どこかに居るであろう彼女を当所無く探す。
森を散歩してくると、それきり帰って来ない彼女を探して彼は暗い森を進んだ。
30分程度では心配はしなかった。
敷地内にある森へは自分はもとより彼女も何度も足を運んでいたし、
敷地内であれば森とは言え外よりは幾分安全だと思っていた。
しかし数時間経っても帰って来ず、彼の心配を煽った。

迷ったのだろうか。
怪我でもして帰れなくなったのだろうか。
自分の知らぬ間に何か危険なものが潜んでいて、それに襲われでもしたのだろうか。
否、それならば何らかの異変や気配に気付くはずだ。
幾らなんでも。
特殊な力を持った存在でもない限り。
心細さに泣いてはいないだろうか。
否、そんなものはただの杞憂で、見つければ案外普通なのかも知れない。

そんなことを考えながら、愛しい人の姿を探した。
彼女が居そうな場所をいくつか廻っても、彼女の姿を見つけることは叶わなかった。
「…やれやれ、困りましたね」
まさか行く所行く所がはずれとは。
姫君の元へ辿り着くのは、やはり一筋縄ではいかないらしい。
暗い森を進む自分は、さながら茨の檻を突き進む騎士か王子か。
「我ながら運のない」
吐息に載せて小さく呟き苦笑する。

しかし。

「…こうも外れ籤を引かされてばかりなのは少々癇に障りますね」
どんな手を使ってでも見つけ出して捕まえたくなる。
誰に聞かせるでもなく口にして、くっと喉の奥で笑い。
軽やかに足を踏み出した。

「偶には童心に還って追いかけるのも悪くない」

至極楽しげに呟いて、ふと浮かんだ場所へと向かった。

 

別に、この場所に来たことに特別な意味などなかった。
以前彼に案内してもらった時に、唯一森が途切れたそこが美しいとは思ったけれど。
彼の記憶に残る大切な場所だと聞かされて、とても愛しくはおもったけれど。
私が一言残してそのまま帰らなかったら、彼は心配するかしらとか。
私が一言残してそのまま帰らなかったら、探しに来てくれるかしらとか。
そしてどんな顔で心配したり、探してくれるのかしらとか。

この場所に着いて突然そんな考えが浮かんだものだから、何となく、実行してしまっただけで。
最初は、そんな気なんて少しもなかったのに。
この場所に来たことに特別な意味なんてなかった。
ふと浮かんだ考えを実行する気も、初めはなかった。

「…おかしい」

くす。
小さく呟いて笑うと、少しだけ水が大きく揺れた。
泉を取り囲む様な森は、まるで鳥籠のようだ。
空では完璧な円が浮かぶ彼女を見下ろしている。
「………」
水面には不規則に歪む月が浮かんで、彼女は歪な空を飛んでいた。
そっと瞳を閉じて。
何を思うでもなく。
ただ、心地の良い音と浮遊感に
身を委ねて。

水に揺蕩うその髪は、まるで。

「…あぁ、さながら魚のようですね」

不意に耳に届いた霞んだ声に、ぱちりと瞳を開けて身を起こす。
ばしゃりと静寂には些か不釣り合いな音をたてて波紋が広がる。
「……っ、ぁ」
「失礼。こんなに可愛らしい魚もいませんね、それを言うなら人魚でしょうし、
もしも花を抱いていたなら、彼の麗しき愛に溺れた哀しき狂姫でしょうか。
…まぁもっとも、私から言わせればそれらは到底、貴女の足元にも及びませんが」
穏やかな笑みを浮かべて宙を漂う彼は、つらつらとそんな事を言いながら、
自分を見上げたまま固まってしまった彼女に手を差し出した。
驚きに目を見開いて水中に立ち尽くす彼女は、おずおずと手を伸ばした。
するとまるで重みを感じないかのように引き上げて、そっと腰を抱き寄せた。
水が浸み込んでしまうのも構わずに。
「……さて、我が麗しの人魚姫はこんなところで何をしておいでかな?」
言いながら器用に外套を外すと、ふわりと彼女を包んでしまった。
同じ目線で囁くように静かに語るテノールは、ひどく温かで心地良い。
向けられる笑顔も瞳も、溶けてしまいそうなくらい優しいけれど。

ああ、でも。

「………」
一度開きかけて紡ごうとした言葉を飲み込んでしまった。

何を、言おうというのか。

それに。彼に嘘など吐けるはずがない。
何を言っても見透かされているような気がして。
初めからすべてを知っていて、それでも自分に付き合ってくれている。
そんな気がしてならない。
僅かに息を吐いて、結局困ったような顔をして俯いてしまった。
「おやおや…人魚姫は深海の魔女に声を奪われてしまったようだ」
楽しげにそう言って、彼は顔を覗き込む。
自分と同じ色の瞳は月の光を帯びて、普段とは変わった色を映し出す。
銀色の髪は青白い光を放って煌いて。
そっと見詰めた彼は、綺麗で、きれいで。
気付けば思いがけず見つめ合う形になっていて、そうしているのが気恥ずかしくて、
ついつい、視線をそらしてしまった。
それに、彼は目を細め。
「…魔女の魔法は、たしか。」
呟かれたその言葉に視線を上げると。

「愛する者の接吻で解くんでしたね」

そう、一層潜めた声での囁きと吐息が唇に触れて。
「………っ」
一瞬、奪うように唇を重ねられたあと。
ただ触れるだけのやわらかな口付けを、何度も落された。
名残惜しそうに離れると、囁きながら今度は額に唇を寄せる。
「魔法は解けました?」
そんな風に語りかけながら淡青色の絹を梳く。
小さく小さく返事をして、軽く睨むようにして彼を見た。

ずるいと、思う。
優しい声で囁いて、その実内心では楽しんで。

そんな視線に至極楽しそうに笑い、宥めるように髪を梳き続けた。
「…我が麗しの人魚姫、こんなところで何をしておいでです?」
「ぁ、の…水浴び、を」
それ以外に言いようがなくて、そう言うと、ほんの少し声が震えた。
くすり、彼は小さく笑んで彼女を見詰めた。
「いくら夜に属するとは言っても些か夜が深すぎる…今は暑い時期でもありませんし
いくら高い体温を必要としない身体とはいえ、この水は少々冷たいでしょう?」
「………」
寒いとは、感じない。
冷え切ってはいなかった、けれど。
「そうしたい気分だったと言うのなら、それでも構いませんが」
そこで一度言葉を切り、ふと、今まで浮かべていた笑みを消して。
そうして真摯な態度で見つめる。
「でもね、リデル嬢」
目を逸らし続けていた彼女は、はじめて呼ばれた名前に向き直る。
僅かな間があって、ようやく彼が言葉を繋ぐ。
緩やかに表情が和らいで。

「心配しましたよ」

「……、…っ、ぅ」

その言葉に瞬き程の間驚いて、すぐに瞳を揺らがせた彼女を。
これ以上ないほど穏やかに柔らかく微笑んで。
この両腕で伝え得る限りの愛しさをこめて抱き締めた。

 


「可愛らしいじゃありませんか」
すっかり締まりなく蕩けてしまった表情で、屋敷の主人は溜息交じりにそう言った。
「私に心配をさせたいがためにわざと帰ってこないだなんて」
「んー?うん、取り敢えずキミ性格悪いよねー?」
久々にお茶を飲んで話をしたい、と誘いの電話を入れてきたものだから
カンヅメ状態で気が立っているバンドメンバーの目を盗んで遣って来たらこれだ。
確かに紅茶は出されているし、お茶請けも美味しいし会話もしているのだが。
上機嫌に語る彼を見詰めたまま僅かに溜息を吐いた。
リデルについては顔はもとより性格も悪くはなく、可愛い部類に入るのだとは思うが。
リデルが可愛らしいかどうかは個人の主観によるものであり、この男にそれを言うと
さも世界、宇宙、ひいてはあらゆる次元の人々がそう思っているのだと言わんばかりの
誤解をしかねないので黙っておくことにした。
「って言うかジズも相当…」
そう呟いて言葉を切り、視線を上げたスマイルの発した言葉に気付いていないかのように
彼はにこにこと笑顔のまま、最早癖なのであろう、顎に当てた手を時折唇に触れさせる。
「あの涼やかな色の髪は一級の絹のように美しく、瞳もまるで紅玉を嵌めこんだようです。
白い肌は滑らかで、声は鈴が鳴る様に愛らしい…その唇も指も爪も、全てに於いて愛おしい」
「あ、あー…ジズ?」
彼とその背後で視線を彷徨わせるスマイルは、どうにかジズを気付かせようと必死に声をかける。

「触れる度に実感しますよ、私は彼女を愛し、…っ」

突然背後から口を塞がれ、言葉を詰まらせたまま見上げると。
「ん、んん」
何から言えばいいのか分からず、口から意味のない音を零しているリデルと目があった。
顔は赤く、尚も赤くなりそうだ。
羞恥からか瞳は潤んで、今涙が零れ落ちても不思議ではないような状態だった。
「な、ぁ、…なん、し、ぁ、し、し…紳士さま、…っ」
「ジズ…あなた」
「あれ、かごめちゃんだ!どうしたのー?」
「リデルに会いに来たのよ、暫く前からこちらにいると聞いていたから」
塞がれた口から手を外し握るジズと、言葉が見つからず彼を見詰めるだけのリデルをよそに、
スマイルとかごめの間ではささやかな会話が展開される。
それが途切れた少しの間に。

「………愛していますよ、リデル嬢」
「……!!」

にこりと笑って彼はそう言い。
そう言われた彼女はさらに顔を赤くして、そっと背後を伺い見た。
無表情でこちらを見詰めるかごめと、苦笑気味に表情を歪めるスマイルと目が合い、
ぱちんと両手で彼の頬を叩くと
「紳士さま…っ、の、ばか!!!」
やっとの思いでそれだけ言って、眺める2人の間をすり抜けて出て行ってしまった。
それを茫然と見送ったかごめは大きな溜息を吐いて、僅かばかり眉を寄せた。
「リデルの言うとおりあなたは愚かだわ…と言うより変態ね。以前から思っていたけれど。」
「んー…ジズが変態なのは昔からだから仕方ないんだよねぇ、もう直らないもん。
あとね、ジズは基本的に虐めっ子気質なんだよ、かごめちゃん」
「今まで猫を被っていたと言うことかしら」
いつも以上に冷淡な声でそういうと、ヒヒヒと笑ってスマイルが答えた。
「猫被りねぇ…どっちかって言えば多分むっつりの方なんだと思うよー」
「御2方とも酷い良いようですね…」
「あなたがそう言われるようなことをしたんじゃない。自業自得だわ。」
冷やかな目線を送られても、ジズは顔色を変えずに微笑んだ。
そうして「だって」と言葉を繋ぐ。
至極楽しそうな色をたたえて2人を見た。

「可愛らしいじゃないですか、あんな風に慌てる彼女は」

必死で。
健気で。
何とも、悪戯心をくすぐる。

そうにこやかに言い放つ彼に苦笑する。
「…もしかして最初から確信犯?」
仮に、かごめがこの場に居なくとも、自分がここに居たのだから
「誰かの前で」と言う条件はクリアできる。
リデルがこの部屋に入ってくることも、自分に挨拶をしに、一緒にお茶を飲む、
あるいはめばえ達の仕事である紅茶及びお茶請けの補充も代わりに彼女がしてくれることも
しばしばあるため、その機会はいくらでもある。
「えぇ、もちろん」
「本当性質悪いよねキミ」
子供のように無邪気に笑う彼に、2人は溜息を零し。
精々リデルが中々許してくれないという事態に陥ることを願った。

 

 

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