あぁ、おねがい、どうか。
この音に気付かないで。
「Hug!Hug!」
うららかな午後。 大きな窓から差し込む柔らかな日差し。 小鳥の囀り。 太陽に温められた優しい風。 揺れる白のカーテン。 暗紅色の厚いカーテンは風を遮ってしまうから纏められて。 テーブルに置き去りのティーカップとポット。 深い緑色に古い金色の縁取りを持つ厚い本。 とっくに熱を奪われて寂しげにカップの中に佇む琥珀色の液体。 陽の高さの関係で丁度棚の日陰になった上質のソファ。
その上。
こっそりと息を吐いたリデルは、困り果てたという表情で身体を強張らせていた。 ソファの肘掛けを枕に横たわる彼。 こんなに天気がいいのだから、うたたねしてしまうのも頷ける。 温かいし、風は心地いい。 昼寝をしたらとても気持ちが良いと思うのだ。 リデルにとっては暗闇に包まれた、少し湿り気のある地下の方が、 身体保存目的においては良い環境ではあるのだけれど。
ああ、どうしよう。
彼女は本当に、困っていた。 ソファの上で、彼に抱き締められる形でうつ伏せている。 もうかれこれこの状態で1時間にもなろうか。 いや、若しかするとそれは体感時間で、実際には10分にも満たないのかも知れない。 そこまで考えて、リデルは何度目かの溜息を吐いた。 彼の胸に左耳を当てる格好で、そっと瞳を閉じた。
でも、だって。
だって彼がいけないのだ、こんな所で寝ているから。
今回は長い撮影の合間合間に、この屋敷に来るようにしていた。 ここから仕事へ行って、ここへ戻ってくる。 もう馴染み過ぎてしまって自分の部屋さえあるような屋敷に。 彼が彼女の部屋を作ろうと言い出した時、悪いからと断ったのに、結局彼は作ってしまった。 いわく、部屋は腐るほどある。 それは事実だけれど、それでもと募ろうとした彼女の頬へゆるりと手を伸ばし、 『それにね…もうそろそろ、貴女が仕事を終えてここへ来た時には、 いらっしゃいませと言うのではなくて、おかえりなさいと言って迎えたいのですよ。だから』 酷く幸せそうに囁いて、笑うものだから。 お願いだから作らせてくれと優しく鼓膜を打つ声に、何も言えなくなってしまった。 その時の事を思い出したリデルは、くすりと笑ってそれでも今の状況は幸せなのだと実感する。 おかえりと彼が迎えてくれることは、何よりも意味があることのように思えて。 緩いカーブを描く階段を降りて、彼がいるであろう談話室を目指す。 いや、元談話室という表現の方が的確だろうか。 きちんとした私室があるのにも関わらず、ほぼ彼の書斎となっている。 今では屋敷の住人も彼と人形たちを除いてはおらず、訪ねて来る客人もそう頻繁にある訳ではない。 いたとしてもその要件や会話の殆どは応接間で事足りてしまうため、 彼が現在使用しているその談話室は既に本来の目的を果たしていないのだから。 ふわりとスカートを躍らせて、扉の前まで辿り着き。 そっと自分の身体を見下ろして、どこか可笑しなところはないか見る。 部屋を出る時にもきちんと見ては来たのだけれど、それでも。 髪を手櫛で軽く梳いて、胸に両手を当て深呼吸を繰り返す。 控え目なノックをして応答を待つが、中々返って来ないので小さく窺いつつ扉を開いた。 風が吹き込んで、僅かに目を細める。 ふと視線を巡らせると、ソファから足が伸びている。 彼にしては珍しく眠っているようだったから足音を立てないように近付いた。 ソファの背後から前に回り込んで、起こさないよう気遣いながら腰掛ける。 「………ね、てる…?」
ほんとうに?
珍しいことだ。 こんな所で眠っているということも、ノックをしても近付いても起きないということも。 少しだけ顔を近付けて覗き込む。 僅かに吊った目は、眠っているとひどく和らいでいて幼く見えた。 自分よりも年上である彼の、こんな幼い表情をみたのは初めてかも知れない。 知らず知らずに笑みが零れた。僅かに目蓋にかかった髪を除けてやる。 「……、…」 ふる、と目蓋が震えて手を退こうとおもった時には遅すぎた。 うすく瞼が持ち上がるのとほぼ同時に、腰と背中に手を添えて引き寄せられた。 ぐらりと身体が傾いで彼の上になだれ込む。 「……っ、し」 僅かに息が詰まって抗議の声を上げようと顔を向けるが、 かろうじて最初の文字が出ただけで、あとは言葉にならなかった。 吐息が頬に触れそうなほどの近距離で、彼はぼんやりとした表情のまま口を開く。 「………あぁ…」 「……」 白い手袋に包まれたままの指の背がゆっくりと頬を撫でていく。 「…いい、香りがすると思ったら」
貴女でしたか、と。
蕩けるような瞳で、あまりに優しく笑うから。 頬が紅潮するのを止められない。 心が大きく揺さぶられるのを感じる。 「し、ません…」 そう小さくつぶやくのがやっとで、それきりリデルは視線を逸らしてしまった。 吐息に笑みを乗せて、「しますよ」と囁く。 彼女は唇をきゅと閉じてしまったけれど。 彼女の頭をそっと胸元に引き寄せて、抱き直した。 「紳士さま?」 「もし宜しければ…もう少しだけこのままでいて頂けますか」 髪に口付けて、鼻先を埋める。 深く息を吸い込んで。 「……貴女の香りはとても、落ち着く、から」 うっとりと囁いたまま瞳を閉じて、緩やかに眠りに落ちていく。 そうしてそんな規則的な呼吸に対して、リデルはそっと深い息を吐いたのだった。
閉じた目をゆっくりと開け、首を持ち上げる。 ふと視界に飛び込んできたのは薄いけれど形のいい唇。 この唇からあの声が零れて、言葉が紡がれて、自分に口付けるのか。 ああほらだって、先程も。 「…な、に、考えてるの…私…」 どきりと鼓動が激しさを増した。 止める方法など知りもしなくて、けれど一度意識してしまえば無かったことにする方が難しい。 僅かに身を浮かせて、ゆっくりと顔を寄せる。 頬は赤いまま、益々色を鮮やかに。 耳の中で繰り返される音がうるさい。
お願い、まだ起きないで。
いつだったか狸寝入りをした彼にこうして近付いたら騙されて、結局ほだされてしまった。 けれど今度はちゃんと眠っているし。 まだ起きる気配もないから。 眠ったままなら何をしたってきっと分からないから。 大丈夫。 心の中で何度も反芻して額と額を合わせた。 間近で見つめる彼は、やっぱりきれいだ。 ひょっとしたら自分よりも長い睫毛、綺麗に弧を描く眉、柔らかで薄い瞼。 そこに軽く触れるか触れないかで口付けて、通った鼻筋と銀色の髪がかかる額にも同様に。 あどけない表情は崩れない。 起きる気配もない。 だけれど祈らずにいられない。 だって今起きてしまったら、きっと恥ずかしくて泣いてしまう。 心に響くこの音でさえ、彼を起こしてしまいそうで。
おねがい、お願い。 この音に気付かないで。
繰り返しながら近付いて。 緩やかな呼吸が唇を掠める。 その吐息すら奪い取ってしまいたくて、思ったよりも深く唇を重ねた。
END? |